2012年4月6日金曜日

蝉しぐれの街角で



 やっぱり癌になったか。

 癌ではないかもしれないという淡い期待はたちまち消えた。

 でも、不思議なことにどこかでホッとしている。

 閉経すれば内膜細胞の異常増殖が止まって癌になることはないという保証があるわけではなかったし、更年期障害で使われ出した HRT療法(ホルモン補充療法)(注) は使えなかったから、六、七年の間、半年ごとの検査結果に一喜一憂し、癌の不安を抱えていたからである。

 どっちつかずの状態より癌なら癌と解った方がいい。次の手だてを考えられる。

 じゃ、その手だてってなあに? 

 癌なら手術に決まってる。わかりきったこと。これからクリちゃんが説明するわよ。

 インフォームド・コンセントである。

 医師による説明と同意。

 この狭い診察室の一隅にはクリちゃんと私しかいないのは嬉しい。それに、背後のドアは厚く、本棚で仕切られ、話の内容が外に漏れることはない。プライバシーを考慮した診察室である。

 診察台はドアの外に並ぶ四つのブースの中にあり、それを挟む形で診察室が三つほど配置されている。ドアではなくカーテンで仕切られた部屋もあるが、スペースが取ってあるせいか、話の内容がすっかり他人に聞かれることはないようだ。もっとも、ブースの中の診察台では他の医師と患者のやり取りが聞こえるが、これは仕方ないかもしれない。

 クリちゃんが夫か男の兄弟を呼ぶようにとは言わないこともありがたかった。これは私の躰に関すること。夫がいようがいまいが、男兄弟がいようがいまいが、子供じゃあるまいし、私がすべてを聞き、判断し決断するべきなのだ。

 医者になった従弟や友人がぼやいていたことが思い出される。

 「どんなに噛み砕いて説明しても、どの治療をとるか自分で決めようとしない人が多いんだよ。『先生ならどっちを採りますか』って言う。医者に決めさせようとするんだ」

 友人の女医は言う。

 「結局、自己責任の意識が薄いんよ。リスクを負わない。ぜーんぶ医者におまかせ。予想しないことが出たら医者の責任ってわけさ。こっちはあらゆる場合を説明して、当座は納得してもらったのに、後になると『いいや、聞いていない』って言い出す。揚句、訴える、でしょうが。もちろん、そうじゃない人もいるんだけどね」

 彼女は血液内科が専門だった。

 でも、この私はそんな医者泣かせにはならない。


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 なぜなら、ホームドクターは言葉どおり優秀な医師を紹介してくれたようだし、私自身、子宮体部癌について多少の予備知識はある。この数年、婦人雑誌では更年期障害や婦人科系統の癌についての特集記事を組んだり、別冊を出していたから、目につくものは読んでいたからだ。医師の説明がチンプンカンプンということはないだろうし、わからなければ質問すればいい。

 それだけの気持の余裕はある。

 では詳しい説明を聞こうと身構えたとき、妙な疑問が頭に浮かんだ。

 なぜ細胞診の結果は『IV』でなくて『V』なの?

 どういうわけか、癌だと告げられたことより『III』だったランクが一段飛び越したことの方が気になって仕方がない。

 「『III』だったのに、いきなり『V』ですか」

 思わずそう言葉に出してしまった。

 クリちゃんはチラと顔あげた。「何でそんなこと訊くの」と言いたげな表情だ。でも彼は私の疑問には取り合わず先を続けた

 専門用語が次々に飛び出す。が、結論はいたって解りやすかった。

 要するに早期癌で、癌細胞はタチのいい方だという。

 目の前に紫色に染められたプレパラートが数枚置いてある。でも、癌と決まったものを今さらこれがそうですと言われても仕方ない。癌は癌なのだから。

 「こういう癌は手術が一番いいんですよ」

 やっぱりね。

 私は小さく頷いた。予想通りだから慌てることもない。

 「普通、結果が出てから一ヶ月以内に手術をします。ルーティンの、つまり癌の手術としてはそれほど大変な手術じゃありません。それに早期だし、癌細胞のレベルもグレードTだから、術後のレントゲン治療や化学治療は必要ないかもしれませんよ」

 おお、ラッキー。

 じゃ、抗癌剤の点滴で髪の毛が抜けたり、レントゲン照射で食事もできないなんてことにはならないんだ。

 それも早期癌だからだ。早期に見つかったのは、半年ごとの検査を怠らなかったからにちがいない。「早期発見、早期治療」という言葉が改めて思い出される。

 癌は癌でもタチがいいとは、運に見放されたわけではない。

 先に明るいものが見えてくる。

 すると、少々ハイになっていた気分が平らになり、現実問題が目白押しに並んでいることに気がついた。

 ・いつ手術するのか。

 ・どのくらいの間入院するのか。

 ・入院前の検査はあるのか。

 ・承諾書とか保証人という事務的な手続きにはどんなものが
  あるか。

 ・入院費。がん保険に入っているから連絡を取らなくてはい
  けない。


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 承知しておかなくてはならないことがいっぱいある。メモしておかなくては忘れてしまいそうだ。

 私は手帳代わりにしている小さなノートをバックから取り出した。

 まずは病名と手術方式をもう一度聞こう。

 「先生。すみませんが父に説明するので、もう一度お願いします」

 クリちゃんがオヤという顔をした。

 「実は……」

 私は、数ヶ月前リタイアした八十四歳の老父が基礎医学者で一応医者の端くれであることを話した。

 するとクリちゃんは親切にもカルテをまわして見せてくれた。

 あんまりきれいな字ではない。

 子宮体部腺癌

 準広汎性子宮全摘

 私はノートに書き写した。手は震えていない。文字も大きめ。ドクター同様、悪筆に近いが、ちゃんと読める。

 パニックになっていない証拠だわ。

 私は心の中で呟き、ほっと一息つく。

 と、「腺癌」という見慣れない単語にひっかかる。

 さっきクリちゃんは何だか嬉しそうに言っていたことと関係ありそうだ。

 「子宮体部の場合、腺癌というのはタチが良い方で、もし、筋肉層に浸潤があっても放射線療法が良く効くんですよ」

 子宮体部癌は子宮内膜癌ともいい、内膜は腺細胞でできていて、それが異常増殖して癌になったから「腺癌」という。子宮体部の場合、これはありふれた癌で、要するに「タチがいい」のだ。

 子宮頚部の「腺癌」は逆に「タチが悪い」。つまり、同じ「腺癌」でも場所によって癌の悪性度はちがう。これは他の臓器についても同じで、癌のできた場所によって異なる。

 私は病名と手術方式を書き終えた。

 結果を聞く前、破裂しそうにドキドキしていた心臓はもう治まっている。「どんなもんじゃい」と威張りたいところだが、心の動揺がないはずはない。クリちゃんにはお見通しだろう。慰めの言葉なり、感情のこもった話し方に変わるだろうか。

 だが、クリちゃんの口調はそれほど変化はなかった。

 婦人科の専門医にとって早期でグレードも低い子宮癌なんか珍しくも何ともないだろう。淡々と説明するのも頷ける。

 クリちゃんは手術予定表を出した。手書きの予定表をバインダにはさんだものである。

 「手術日は月、水、金曜日で、一日三件なんですが……」


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 私は伸び上がって予定表をのぞきこんだ。月、水、金曜日の枠には患者の名前を黒で囲んだものが二つと赤で囲んだものが一つ、という組み合わせでならんでいる。七月はもうびっしり埋まっていた。八月をめくると五日の水曜日が空欄になっている。

 でもクリちゃんは逡巡している。

 「えーッと、実はですね」

 何度も紙をめくっては考えこんでいたが、やっと口を開いた。

 「えーッと、実はですね。六日から僕は夏休みを取るんです。手術のあと、僕がいた方がいいでしょ」

 そう言うと顔を上げた。

 眼鏡の奥の目が気恥ずかしそうにこちらを見ている。

 癌の告知に対する患者の反応はたくさん見て来たはずなのに、対応は苦手なのかしら。

 でも、主治医がいないときにかぎって患者の容態が悪くなるっていうから、このドクター、押さえるところはちゃんと押さえてるんだわ。

 おざなりな慰めの言葉より嬉しい配慮である。

 「ええ。いてくださった方が心強いです」

 私は大きく頷いた。

 「七月二十九日に押しこみましょう」

 一日に四つのオペになるわけだ。いくら腕がよくたって、若くたって大変だろうに。

 「でも、いいんですか」

 「ええ。二つは子宮筋腫で大きな手術ではありませんし、もう一つもたいしたものではありません。大丈夫です」

 腕に自信があるんだな、と思った。それもただの自信ではあるまい。

 二十代の頃、私はある大学病院の脳外科医局に勤めていた。同年代の医師たちがその後話してくれたことが脳裏によみがえる。

 「医者になって十年も経つと、やたら手術が面白くて、学会から呼び戻されるといそいそと帰ったもんさ。だけど、四十の声を聞くと逆に手術が怖くなって慎重になってきたよ」

 おそらくクリちゃんは自信と慎重さを併せ持つところにいるにちがいない。

 私は改めてクリちゃんを紹介してくれたホームドクターに感謝した。そして、いかに身近な相談相手としてのホームドクターが必要かを思った。

 さらに、親友が女医だったことも幸いしている。専門は違っても、これまで病気になるたびに相談し、私の判断がピント外れでないかを確かめる上で得がたい相談相手だった。

 クリちゃんは、机の引出しをあちこち開けて何か探している。

 見つからないのか、つと立って外へ出て行ったが、すぐに事務の女性と一緒に戻ってきた。

 「先生。ここにあるんですよ」

 女性は机の脇にぶら下げてあった書類を差し出した。

 クリちゃんはまた机に向かった。

 診察のコーナーの狭い一隅はしんとして、クリちゃんの走らせるボールペンの音がやけにくっきりと聞こえた。


(続く→)

 更年期治療法としてホルモン補充療法(HRT)というのがある。

 更年期は女性ホルモンが急激にバランスを崩し、閉経へ向かう。その結果、総合病院の診療科目の全部を網羅するほど、さまざまな症状が出てくる。しかも障害の程度は人によってさまざまである。

 そこで、女性ホルモンである

・卵胞ホルモン(エストロゲン)
・黄体ホルモン(プロゲステロン)

 を服用して、ホルモンバランスをたて直してさまざまな障害を緩和させようというのがHRTである。

 この療法のいい点は、

・更年期症状が改善される。
・骨租しょう症の予防になる。
・ コレステロールを低下させて動脈硬化の予防になる。
・ 性交障害を緩和させる。
・ ある種の尿失禁に効く。
・ アルツハイマーの予防になるらしい。

 しかし、いいことばかりではない。

・ 子宮筋腫がある人
・ 乳腺炎になったことのある人

こういう場合は使えない。

 また、血栓性疾患、肝機能障害、エストロゲン依存性の悪性腫瘍は絶対に使ってはいけないとされている。

 運良くHRT療法が使える場合でも、副作用がある。

 またホルモン療法を受けている間は定期的に血液検査など、細かいチェックが必要とされている。

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